先日、ユーチューブを見てると、第二次世界大戦時代に人間魚雷「回天」に乗車していた生存者のインタビューがあった。
まるであの頃から時が止まったような余生を見てると、胸が張り裂けそうになった。
仲間が亡くなったそば、平和過ぎる現代を受け入れるのに抵抗があるようにも見える。
神風ほどではなくとも、回天も特攻部隊として話題にされることが多い。
気になるのは戦果と、当時の作戦の状況である。
ネットで調べてみると、「鉄の棺桶」など不吉な見出しの記事などが目立つ。
回天とは?第二次世界大戦に誕生した人間魚雷
先端に爆薬を搭載し、搭乗員が自ら操縦して敵艦に体当たりする水中特攻兵器。
人間魚雷回天はガダルカナル島が米軍の手に落ち戦況が悪化してきた昭和18年の夏ごろ、余っていた九三式酸素魚雷をどうにか活用できないかと考えた黒木博司中尉と仁科関夫少尉の発案で制作されたモノ。
1944年8月に兵器として承認された。
1人乗りで全長約15メートル、直径約1メートル。
脱出装置はなかった。出撃すると乗務員は生きて帰ってくることはできない。(不発などは別)
回天記念館によると17~27歳の106人の搭乗員が戦死した。
回天の名前の由来
回天という名称の由来は、開発した開発に携わった黒木博司中尉曰く「天を回らし戦局を逆転させる(天業を既倒に挽回する)」とのこと。
また、特攻部長大森仙太郎少将が幕末期の軍艦「回天丸」から取ったともされている。
回天の命中率と戦果。報告は合ってる?
回天による戦果は49発の内、僅か3発のみ。命中率は2%ほどしかないということです。
最初の戦果は1944年11月20日の「ミシシネワ」。63人の命を奪い、95人の負傷者を出し、さらに満載していた、艦艇用重油5,000バレル、ディーゼル油9,000バレル、航空燃料405,000ガロンも海没させました。
2回目の戦果は1945年1月12日の「LCI(L)-600 (歩兵揚陸艇)」で3名の命を奪いました。
3回目の戦果は1945年7月24日の「アンダーヒル」で112名の命を奪い、約100名の負傷者を出しました。ちなみにアンダーヒルに命中させた回天に乗っていたのは多門隊伊53潜・勝山淳中尉(没後少佐)でありました。
また、敵船を沈没させることはできなくとも、損傷を与えることに成功した例もあります。戦果は少なくとも精神的にプレッシャーを与えることには成功していたそうです。
あれほど成功率の低い作戦であるにも関わらず、当時のアメリカ軍の上層部が回天の存在に怯えていたというエピソードがあるので、当時の関係者はアメリカ側が意図的に戦果を陰謀してるのではないか?という声もある。実際に確認されている戦果は後に詳しく調べ直されたりはしていないそう。
戦争が終わると上官は乗務員に「一切忘れろ(回天や大津島で見たもの全て)」
当時にして命中率が低い作戦であるのは身内の間では知られた話だったそう。
それでも外部では効率の良い作戦だと信じられていたとか。
ある生存者の方が、当時上官に、「これでは敵の船に辿り着くことはできません」と発言、それに対して上官が返した言葉は「敵船はデカイ。どてっ腹に当たれば良い」と、なんて投げやりな。
8月15日に玉音放送で終戦が知らされると、上官は乗務員たちに、大津島で見たものや回天の作戦に関わるものを「一切忘れろ」と発言したそうです。
回天の作戦拠点の山口県・大津島と記念館と遺書
当時、回天の訓練・作戦の拠点となっていたのが山口県の「大津島」です。
軍好きな方なら一度は観光に訪れたことがあるのではないでしょうか。
海沿いに「回天の島」との看板が貼られているということで、回天と島の関わりは原住民も認めるところのようです。
また、大津島には「回天記念館」も存在するようで、そこには作戦に参加された方の名前や顔写真をみることができます。
回天特攻隊の遺書は記念館で読める。ネットで有名なのは偽装だった?
神風特攻部隊などの遺書が公開されて以降、ネット上で涙を誘われたという声が出ました。
戦時中の方々の死を意識した言葉は、現代の平和ボケした僕らの胸に沁みます。
実は回天特攻部隊だった方で、ネット上で遺書が有名になった方がいます。終戦後の残務整理で軍関係者が特攻兵器の詳細を明るみにしないため搭乗員の遺書や遺品は厳しく管理した為、大津島の記念館でみれる意外の遺書が明るみになるのは珍しいことでした。
お母さん、私は後3時間で祖国のために散っていきます。胸は日本晴れ。
お母さん。今日私が戦死したからといってどうか涙だけは耐えてくださいね。でもやっぱりだめだろうな。お母さんは優しい人だったから。お母さん、私はどんな敵だって怖くはありません。私が一番怖いのは、母さんの涙です
しかし、後にこの遺書の詳細がデタラメで偽造されたものだとわかりました。
この元回天特攻隊員の遺書とされるものが世に出たのは平成7年。元海軍士官の男性が皇学館大の戦没学徒慰霊祭で講演し、大学が講演録として冊子にまとめた。この中で男性は自身を回天の元搭乗員と名乗り、先に出撃した仲間の遺書として名前を出して披露。遺書そのものは家族に渡したとして示さなかった。
男性は立命館大在学中、海軍に志願。海軍辞令公報によると、昭和19年12月に一等巡洋艦「八雲」配属の後、富山県の伏木港湾警備隊で少尉として終戦を迎えた。防衛研究所所蔵の回天搭乗員名簿に男性の名前はない。男性が遺書の作者として名前を出した人物は搭乗員の中にいるが、戦死の状況が異なる上、遺書に書かれている家族構成も実際とは違っていた。そもそも別の遺書を残しており、今回の遺書とは関係がなかった。
回天の元搭乗員でつくる全国回天会は平成12年、講演録をまとめた皇学館大に抗議した。当時は存命中の元搭乗員も多く、男性の話の矛盾を突き止めたという。大学側は謝罪し、講演録の絶版を約束した。
回天特攻隊の名簿
(注:名前の前に*のあるのは回天隊発足時の最初期に集まった士官34名。朱色は戦死・殉職。「コレス」=海兵/海機の同期生。) |
海軍兵学校, 海軍機関学校出身者122名(戦没者31名)
*上別府宜紀、*樋口孝、近江誠
*黒木博司(創始者)
・海兵71期
*加賀谷武、*仁科関夫(創始者)、斉藤高房、*帖佐祐、根本克、三谷興司夫、湯浅明夫
・海兵72期
*石川誠三、*柿崎實、*河合不死男、*川久保輝夫、*久住宏、*土井秀夫、中島健太郎、*福島誠二、*吉本健太郎、橋口寛(敗戦の日に自決)、*小灘利春(戦後全国回天会会長)、三宅収一、(20年5月以降着任)足立喜次、上野三郎
・海機53期(72期コレス)
*川崎順二、*都所静世、*豊住和寿、*福田斎、*村上克巴
・海兵73期
勝山淳、成瀬謙治、三好守、池本三徳、井上薫、佐々木清信、成田正光、羽田育三、東島大、峯真佐雄、宮崎誠一、室井則泰、(20年5月以降着任)荒井源一郎、佐藤久安、田代英俊、村上保、大坪寅郎、児島誠保、斎藤政幸、中野博、松岡一良、真戸原勲、岡上恵、小林浩之
・海機54期(73期コレス)
伊東修、岡山至、小林富三郎、宮沢一信、本井文哉、八木悌二、加藤正、坪根昌巳、那智勧、西山一夫
・海兵74期
味方正治、岩本龍範、井本武之助、岩田幸雄、織田春生、大野達雄、川合雄三、亀田琢磨、木下勝、木村二郎、國田公義、神武恒夫、古俣壮一、小松茂、島道夫、鈴木輝実、袖山庸一、高橋厚、高橋一夫、長野法夫、中西謙二、根本守、菱谷政種、深草俊茂、外間完英、真子渺、松尾秀輔、松村清行、元岡正忠、森重良、山本孟、八木澤三夫、米田新一、米田喬、和田孝夫、(20年7月17日以降着任)及川浩、才木種親、多武保清水、坪田文雄、東納宗三郎、堀俊之、大和郭二
・海機55期(74期コレス)
稲葉三郎、小林四郎、澤田耕昌、鮫島哲郎、椎名富男、末松茂、高山正、角田実輝、沼田良三、羽仁寛、増田秀夫、松本公男、丸山三郎、本島正範、山本好隆、(20年7月17日着任)川島亮
予備学生出身者244名(戦没者26名)
*三期予備学生出身隊員 34名*
・水雷学校出身者 14名
*今西太一、*池淵信夫、*上杉正俊、*宇都宮秀一、*工藤義彦、*小林好久、*近藤和彦、*佐藤章、*永見博之、*原敦郎、*藤田克巳、*松岡俊吉、*前田肇、*渡邊幸三
・航海学校出身者 20名
浅田義雄、井谷武男、稲垣新樹、岩館康男、上山春平、神浦泩太、木村文一、久堀弘義、斎藤進五、櫻井勝、島田誠之助、鈴木千之、須山三千三、高橋和郎、高橋正、中村太喜三郎、野田正樹、伴修二、八重樫巌、宮下修一
*四期予備学生および一期予備生徒出身隊員 160名*
昭和19年9月選抜者50名
・水雷学校出身者
赤松初司、石田敏雄、亥角泰彦、市川尊継、伊南光、岡修、加藤宗良、鍵谷宏、菊地時郎、桐澤鬼子衛、黒澤五郎、久家稔、小林秀雄、合田哲堂、澤野郁、斎藤光弘、塩津禮二郎、重岡力、柴田雅美、鈴木節造、鈴木大三郎、園田一郎、十川一、館脇孝治、田中二郎、武永惟雄、塚本太郎、中嶋太一、難波進、中津信夫、長岡鍈治、濱野弥一郎、藤田正信、堀田耕之祐、松木英治、三浦正人、水知創一、南尚、宮原宣雄、山崎諭、山崎良作、八木寛、安西信夫、岩瀬茂、佐賀正一、田中毅、土屋信夫、中山弘、濱本良三、村上尚志
*昭和19年10月選抜者 航海学校40名 対潜学校40名 合計80名*
・航海学校
足立知己、伊藤秀七、伊藤兵次、臼居良一、大石法夫、大橋正美、大森三平、近江哲男、川崎富夫、工藤昌助、呉石喜一、斎藤正、斎藤義道、竹岡八雄、武内英雄、武田五郎、武田道夫、立亀長三、谷嘉好、谷本眷二、東郷隆次郎、仲谷幸郎、中塚庸一、仁田山守信、藤澤喜郎、前田夘一郎、山野助男、横山芳男、和田稔、池谷平、小笠原宏、金子正造、菊地晃、木村秋雄、今野剛一、関豊興、田中亮、中谷章、春国政兵衛、福光英之
・対潜学校
浅野政明、飴勝二、岩井忠正、遠藤進、大亀進、大野藤之助、岡田信雄、加藤孝友、久保良伸、神津直次、斎藤明照、斎藤新、酒見昌邦、柴田繁、鈴木武、遠山巌、戸川吉夫、新倉力、橋本栄一、疋田徳造、藤田協、藤本慶次郎、前田禎造、松原繁雄、真許静雄、水井淑夫、山本譲二、我孫子龍治、江口友之、岡野琢也、川上育男、黒江敏雄、後藤次男、佐々木賢生、嶋村錦之助、下地恵栄、白石豊基、杉本恵、瀬川清、濱田廉平
*昭和19年12月選抜者 水雷学校20名 航海学校5名 対潜学校5名 合計30名*
・水雷学校
石井正常、石岡貢、大山高之、勝田久二、川端正和、小牧英吉、高岡一彦、谷道巌、中野賢治、中村雅明、中村久、南市皆洲、羽路哲也、吉米久穂、宇井弥一、佐藤次男、庄野新、澁谷隆一、鈴木洋、関野修
・航海学校
岡本哲也、坂本豊二、西村定仁、岩城英明、岡田清
・対潜学校
賀来張二郎、川崎彰一、小林正直、立石新、遠山純一郎
*五期予備学生および二期予備生徒出身隊員 50名*
・水雷学校出身者
井下田芳朗、岩下良雄、大久保信久、岡野鉀三、川戸正自、木村芳雄、清原真美、古賀保男、神野志真治、曽山皓、中島景明、中濱博、納富正隆、西村孜、原口喜夫、古山真一、別所三樹、長谷川秀雄、干川佳男、本川繁、堀端宏、松下信雄、松田正敏、森田昌平、安井三郎、柳川陽三、山田徳郎、山中良一、横山弘治、吉川雄三、今泉博、大平四郎、奥村銀也、木全修、工藤孝、小泉陽春、椎原末敏、鈴木巌、鈴木晃一、田中信夫、中村明、長友勇夫、野崎輝彦、橋本幸之助、羽田吉三郎、平林文人、藤枝富夫、宮井弘、三好充朗、村上龍三
兵科下士官出身者
10名(戦没者9名)
松村実、佐藤勝美、福本百合満、有森文吉、井芹勝見、古川七郎、山口重雄、新野守夫、田中金之助
飛行科下士官出身者
1050名(戦没者40名)
森稔、三枝直、磯部武雄、芝崎昭七、浦佐登一、熊田孝一、川浪由勝、石直新五郎、宮崎和夫、矢代清、菅原彦五、安部英雄、松田光雄、海老原清三郎、千葉三郎、小野正明、金井行雄、斉藤達雄、田辺晋、岩崎静也、柳谷秀正、北村十二郎、川尻勉、荒川正弘、小森一之、中井昭、林義明、上西徳英、佐野元、猪熊房蔵、赤近忠三、伊東祐之、井手籠博、夏堀昭、矢崎美仁、坂本宜道、入江雷太、坂本豊治、楢原武男、北村鉄郎